はげましのうた

立ち上げたブログを放置しつつある。
1日ひとつ単位で投稿しているインスタグラムと違って、己に頻度課していないブログはうかうかしてると5日とか経っちゃうのですね、と気づきを得ています。

さて、わたくしは現在ライブの準備をしている。担当している曲の編曲がまったく終わらず苦しんでいる真っ最中。さっさと手をつけていればこんなことにはならなかったと思うが、春の企画だったはずが流れた延期公演であるからモチベーションの加熱がちょっと難しいのだ。そういうことにしておこう。おいしいコーヒー豆を買ったのでそれでも入れて、もう今日は徹夜するつもりで長くのんびり譜面を作れたらと思っている。こうしてブログを書いたり、絵具をひっぱりだしたりして、結構自由にしているのでとにかく進みが遅い。ひとつのことにつきっきりがめちゃくそ苦手であるなと思う。

さて、曲をつくろうとして曲がりなりにも行動に移しつつある現在。ちょっと言葉にして保存しておきたいことがある。不完全でも文章に残そう。

ここのところ、「音楽をしています」と一口に言っても、自分がいままでしてきたのは演奏であり、まあたらしい曲をつくるのは全くの別物だなと感じている。今じっさい編曲をしていて思うのは、たとえば、こんな風に色をひっぱりだしてぶつけたりつぶしたりしたいなと思って譜面の中にしばし泳がせてみたら、「ハッ!?これ誰がどんないきさつで演奏するんだ?」というのがすぐ浮かぶ。
「演奏すること」を長くしてきたわたくし。きっとそれは「音を整理し、編集すること」なのではないか。音や要素、材料を全体図から引いてきて、一番ふさわしいと思う落とし所を探す。きっとゼロからつくることは、それとはまったく違う筋肉をつかう、別な扉からつながる世界なのではと感じる。同じ音楽としてくくるのはあまりに乱暴だった。今後発展していければ、わたくしに必要なのは両者をすり合わせることなのだろう。周りのオリジナルをつくるミュージシャンたちの途方もない努力の質感を感じている。

つくること、整理することは全然違う。
これがわたしです、と両者言っているみたいだしその要素もありますが、
根元の役割がちがうと思えば、きっと編曲の筋肉が働くはず。
そう、このブログ、わたしの尻をたたくための檄なんです。きっと

三隈川のほとりにて

※別のブログサイトからお引っ越し

 2020年8月3日の投稿より

魚釣のひとから伝授の日
同じ都合でいらした夏からちょうど一年が経った。

「この響きのときにこの音遣いに呼ばれているんだよ」と、たくさん開いていただいた本日。高校と大学で音楽理論を学び、材料さえあれば音楽の中で何が起こっているか説明できるはずなのに、実践で組もうとするとバツンと別物になってしまう。今日はそれらをつなげるような物語を大切に聴いた。

正直なところ今までその方にお会いする時、「こんなの自分にはできません」「同じようにうつくしく演奏できません」という気持ちが強かったのですが、今日は封印してみた。代わりに、お手紙にお返事をかく感覚で音を紡いでみると、拙いながらも花が咲いた感じになった。もちろん得たいものたくさんあるし吸収する気だけど、楽器も下地もなにもかも違うし、同じになんてならんよね。
タイプの違うプレイヤーが共存している環境がいいですとおっしゃっていたそのひと。なんて勇気が出る言葉でしょう。わたしは勉強不足だし頭もそんなによくないけれど、次お会いするとき、同じようにうたったり全くちがうようであったり、マーブル模様みたいになれたらいいなと思いました。

さて、夕方帰ってきてからちょっと涼む。枝豆を掘り起こしてゆがく。育ちすぎたからかちょっと苦い。まだ畑にあるけれどそんなに食べないし、どうしようかなと思う。

即興スケッチにとりかかろうとソフトに向かった夜はじめ。ところが、なんだか自分のやっていることが幼稚で気持ち悪くありきたりでひどいしろものに思えてしまう。お昼うつくしい音をたくさん聴いたからだろうか。手もまぶたもびりびりする。自分の音のことも自分の出すものすべて全部いやになっていらいらし、飲み水をひっくり返したり。あんなにわくわくした録音も作曲も急に無意味で馬鹿げたものに感じられて、おなかに小鬼でもおるのか?と我ながら笑ってしまった。継続は力なり、というのはこの不都合な自分との対峙なのだな。

そうだ川に出よう。

夜の中腹、突如として川に出る。
水辺が大好きなわたくしは、街にある湖のような川のほとりでよく楽器の練習をしている。先月は水害がひどかったので、一月以上川から遠ざかっていた。とても久しぶりの川、いつもの場所は水に浸かってしまっていたことから、すこし砂っぽい。
パソコンと楽器を置いて腰を下ろすと、はあっと気持ちが落ち着く。明日が満月なようで、ちょっと赤の差したまるい月が木の枝ごしにのぞいている。すっかり夜だというのに蝉の声がしっかりする、というか、川ってこんなに音がするのかと改めて思う。しずかな山の家とは大違いだ。とおくの水辺におちる電灯が揺れていてうつくしい。家を出るときはもうすでに暗くなっていたし、あやしいかしら行くのをよそうかしらと思っていたが、やっぱりここに降りてきてよかった。

川と一緒に録ったスケッチは2本。
一本目は5つくらい重ねていて、重ねたぶん蝉と川の段差部分の水音がすごく入るから、濁りが多くなってしまった。蝉が予測不能にアクセントで入るのがおもしろい。二本目は2つ重ねて幾分すっきり。

お家でつくるよりも目から耳からの情報が多くて、ひとりぼっちのストレスがなかった。音のなにかしらを作ることについて、正直、習慣化するのが最優先事項で、もうとにかくゴミでもなんでもいいから作れ作れと自分に対しておもっている。録っては消し録っては消し、微妙に残したりもする無数の音群。一応つくってはみたけれど…と、なんとなくでうかべるクラウド上。こんなでもだれかが聴いてくれたりするんでしょうか。第一号はいいねがついていたな。わたしも一号がいちばんすき。きっとこれから先自分のこと大好きになったり大っ嫌いになったりするんだろうな。

川は「誰の役にたたんでもいいよ」とわたしに言ってくれるみたいでとてもいい。
誰の役にたたんでもいい。


https://soundcloud.com/mayokehr/0803-1

最初の所感

※別のブログサイトからお引っ越し

 2020年8月1日の投稿より

即興スケッチ作り所感

◆やってみることとか、きっかけがありさえすれば形になる
Macガレージバンド、Webの音楽サービスとの連携など、道具にすごく助けられた。「ひとつしか音が鳴らない楽器だし機材もない自分にはできないや」というのが無くなった。

◆こういうものにたどり着きたい、からの逆算だと手が止まる。
言葉とか情景やイメージが先にくると、自分には無理だという感覚がとっさにおりてくる。何からやっていいんだっけとか、それにたどり着く手順がわからんから無理とシャッタがおちる。他の人はどうやっているんだろう、だれか助けてほしいな、みたいなことも浮かんできた。意識が自分自身にまとまらずキョロキョロした。

◆目的地を想定しないで出してみると、集中力やたのしさが増した。
思いついた順に並べる、音を出してみてそこからぴーと引っ張り込むと、おもしろいふしまわしやリズムのあかちゃんみたいのが生まれる。結構ノンストレスに比較的長い時間演奏していられる。ただ、一辺倒になりがち。たぶん手癖に頼るからかな。
ソフトの中で音を重ねるとまたあたらしくお返事ができたり、うつくしかったものが崩れたりする。一回絵の具で描いた色を指でざっと掠るみたいな感じの印象に。2日目の録音は、元の音源と同じタイミングで切らず、続きを紡ぎ、それにまた新しいトラックを足す作り方にしたらちょっと新しく展開がつくれた。
また、つくるうちに、もうこの展開とか音づかいは既に出たぞ、という場所に着陸もした。音を重ねると面白いけれどカロリーがかなり高くなる。音のない空白をつくっておくと、緊張感がうまれる。

などなど。
自分にとってたのしく力抜いてニュと出来るのがいいよね。予想と違うこともたくさん、白紙にたくさん色のせる

***

さて、明後日、熊本のすてきなトランペッターが魚釣りに隣町を訪れる旨の知らせを受けた。
その前にセッションというか一緒に練習してくださる機会があるとのことで、おひるから参加するつもり。型がとにかく美しいひとなので、もう遅いけれどちょっとスケールのおさらいしてから寝ようと思います。

やさしいおふとんのようなミュートをかける

 

 

つくると似合うの間柄

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 2020年7月31日の投稿より

頭が痛いのは軽い熱中症なんだろうか。

久しぶりにちょっとだけ多めに動いた仕事から帰宅し、思ったよりどろりと疲れていたみたい。少しの頭痛といっしょに軽く眠ってしまった。目が覚めて、同居人に実家から送られた桃をむいてやる。まるでジュースのよう、とってもみずみずしいねと喜んでたべていた。今日夜は外に出るとのこと。わたくしは鶏とニラとキャベツと枝豆の味噌炒めを簡単に作って食べる。

帰宅した途端に訪れたどんより曇った気持ち。日中あんなに録りたい音が浮かんできたのに情けないものである。元気がないけどやっぱり楽器は吹きたいし、もう楽器持ってきただけでOKよ!とかじぶん甘々に言いながら、Macをたちあげた。
今日のポイントは昨日の反省を生かし、ガイドを入れたこと。カホンでリズムパターンを録音することから始めた。でも当たり前っちゃ当たり前だけど、慣れないものである。ひとりでぼちゃぼちゃ紡ぐって間がもたないし、ソリスティックになりすぎるとガイドじゃなくなっちゃうし。結局消す音なのにな。ガイドに乗せたホルンたちは昨日の作品よりは足並み揃っているように思えるけれど、冒険心はちょっと減っちゃったような気がする。まだ構成もない鉛筆殴り書きなのは相変わらず。
https://soundcloud.com/mayokehr/200731-1

ジャズをやっていて、アドリブの際、耳で捉えた自分や周りの音が呼ぶ方へ招かれている〜と思いながら演奏しているのですが、所謂これがジャズというもの!という心がはっとする約束されたフシは自分から出てこないと感じる。どの楽器にもあると思うけれど、ホルンの音もやっぱり似合う似合わないのようなものがあるのだ。そんな話を昨日訪ねたライブの後、慕っているトランペット吹きと話した。サックスはサックスだからね、ホルンでおんなじようにやんなくたっていいですよ、と屈託なく笑う顔が眩しい。彼女にも桃を差し上げた。

何が似合うかとか、何がわたしとホルンの間柄でしっくりくる響きなのかを旅して探している。半野良とはいえど長く群で演奏していた自分、これがかっこよい〜みたいのが無意識にあって、今ふと口ずさむことで鏡みている感じなんだろう。ホルンは呪文とか、お経読むみたいなのが色っぽいと感じているから、それがそのまんまま出てる。十代中盤でよく聴いていた音楽に招かれてて、すげー中二病みたいなスケッチです。そのうちもっと大人びたものとか聴き手をつつむものもつくるかもしれない。

録音が終わってブログの続きを書き終えたら、頭が痛いのも消えていた。
今はいい風鈴の音が聞こえる。お風呂に入って寝ましょう。

 

 

即興スケッチ第一号に寄せる

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 2020年7月30日の投稿より

窓という窓開け放ち、楽器を出して録音したり、ぼうっとしたりしている。

やんなきゃいけないことがたくさん浮かんできながら、やりたいこともどの順でやっていいかわかんないしと思いながら、今筋トレのようなシーズンを自分に感じている7月末。とにかく手を動かす、しのごの言わずやる。形に、形に、かたちに!
汗をめちゃくちゃかいているからちょっとした風がとても涼しい。夏に入る前買った火鉢のような風鈴がとてもいい音を出している。空気と自分の肌が限りなく近い境界線があいまいになる感覚は、夏の贅沢品だと思う。

久しぶりにジャムセッションに参加した昨晩。大好きなミュージシャンと会えてうれしかったけれど、自分の語彙力や物語をつくる力の弱さをたくさん感じた。アドリブをとるのは言語と一緒だといわれた。英語を覚えたりするのと似た感覚だ、すこしずつ喋れる文章を増やすのだと。自分もそう思う。わたくしも、もっとたくさんながくおもしろく喋りたい。

幼少期は民族音楽や民謡をたくさん聴き、中学生ではじめたのは吹奏楽部、音楽大学クラシック音楽を勉強して、スナックで歌謡曲のおかずソロをとり、現在はジャズの修行をしているわたくし。たぶんふと頭に降りてきた音たちはさまざまに無数に紐付けられ、思いもよらぬところが呼び込み共鳴したり、仕舞い込んだものが偶然あたらしく響いたりするのではないかと仮説を立てています。
ちなみに、作曲をしようと思って楽器でつぶやく音の並びのインスピレーションは、中学校の部活でたくさん聴いた吹奏楽の曲たちから来ている気がする。わたくしがホルンの音を初めてかっこいいなと思った原風景だ。

お昼前に、一作品目を無数の音群サービスに置いた。1分満たない簡単なデモ。音もずれてるし、なんならケトルがお湯を沸かしとる音がはいっとったりするけれど、「はじめたてですので!」の旬と爆風を感じる。なんだかとってもたのしそうじゃん、我ながらわくわくするんだけど!

うまれたてのかわいい音、こうしてあたらしいブログに貼ろう
https://soundcloud.com/mayokehr/200730-1

音楽の畑 つちつくる編

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 2020年7月29日の投稿より

 

相変わらずの雨

休日の遅過ぎる朝、ツナマヨトーストを作成し、イワシ煮る。
コーヒーをいれる。お風呂を溜めて洗濯物をたたむ。

お昼過ぎから、パソコンの中に録音したものを重ねて編集できるソフトを発見し、あそんだ本日。思ったよりも使いやすい気がする。鳥とかカエルの声が入ったらいいなと窓の方へ出てきて録音してみたりした。音が重なると自分だけでつくったのに複数人でやっているみたいでちょっとたのしい。

けれど全部自分が選んだ音というのは結構恥ずかしく、録ってみた音もなんだかすぐ消してしまう。これって人に聴かせるものじゃないよな、と思える間延びした音の群。思いつきで湧いてくる音を広げつつ、ひとまずソフトであそんでみるぞの段階なのでしかたない。型を決めて、それを基に作れば物語になると思う。河原で楽器を練習しているときに川の音を聴きながら思いついたまま音を出していることを喋ったら、インプロビゼーションだねと言われたことがある。でもそれってどこにも残らないから楽しいのであって、形にのこして誰かに聴いてほしいまるごとの作曲とは全くの別物だと改めて感じた。

既視感のあるものでなく予想外にしたいけど、グチャグチャなのはやだ。誰かに教えてもらいたいけど、ぜんぶ自分で見つけたい。楽器が演奏できて、楽譜が読み書きできるから、わたくしにはきっと作曲の材料はある。きっとレシピを持っていないだけなのですね。旋律から作るのか、伴奏からつくるのか、録音しながらつくるのか、五線に書き起こしてみるのか。どうしていいかわからん不安は旬の珍味的感情だ。居心地がわるいけれど味わい深い。

ひととおり遊んでみて行き詰まるをひと巡り。贅沢な1日ではなかろか。自分は聴覚頼りに音を記憶しておく能力がちょっと弱いことも思い出している。地図的な譜面があると、構成が組みやすい。採譜も苦手でめちゃくちゃ時間がかかるけれど、やっぱり五線上につくることを種まきにしてみようかな。

何から芽吹くかわからんちん。わたくしのかわいい畑。

 

 

あたらしい船

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 2020年7月28日の投稿

あたらしい船がほしい。

絵と文章を1日ひとつずつ単位で投稿するインスタグラムアカウントを開始したのがちょうど8ヶ月前。それが途切れることなく続いてしまった。自分は怠惰な三日坊主だと感じているから、快挙である。自分の作品集をつくりたいと決意したのがアカウント開設から1ヶ月後。作品集には編集が必要で、当たり前だがとにかく材料がなければ編むことはできない。1日ひとつの絵と文章は、誰かに見ていただくことよりアウトプットの練習のための日課だった。

わたくしは音楽もするので、というか専門が音楽なので、演奏だけでなく自分の音楽の作品もつくりたいなといつも思っている。こちらは、作りたい気持ちだけてのひらに置いたまま今年がもう半分以上過ぎてしまった。音楽は、絵や文章と違って他人との協働の要素がつよい。これがいい形でこれは劣った形みたいな理想や固定概念もあるからちょっと距離がある感じなんだろう。誰に頼まれたわけでもない焦りも感じていて、ほんとうに不器用なやつだと我ながら思う。

絵や文章や音楽について、ひとまずまとめておく貯蔵庫のような場所が欲しい。他のひとに混じって流れるお知らせ要素がつよいSNSはなんとなく合わない気がする。あたらしい媒体を探しここにたどり着いたが、何もないところに浮かべるし、肝心の音の作品はないし、しばらく人に言わないとおもう。

そういえば、インスタグラムのアカウントを開設したときも、1ヶ月くらい誰にも言わず、頃合いをみてぼんやり開放したのだった。開設当初、ペン画の殴り書きの絵と自分の根を齧った文章をつくったのがなつかしい。2019年11月末にはじめた記録、読んでて一番味わいがあるのは12月から1月くらいにかけてだなと思う。固有名詞なし、地名なし、自分の名前も出さない文章をたくさん書いた。冬が過ぎ春が終わって夏が来て、自分の名前も地名も書くようになった。拙いけれどどの絵も文章も日々書きためたもの。とても愛しい。音楽の表現にもこんな場があったらなとよく思う。

作ったものを見てもらえないことっていないのと一緒だからねと友はいうけれど、ひとまず一対の目を持つ自分自身を排除してはならない。誰に何を思われてたって結局全部薄れていくのだし、死ぬまでわたしと付き合うのは自分自身だけ。まずは自分がやりたいように作ってみるのがいいんじゃないか。発する作ってみることへの抵抗を減らす、習慣にすること、音楽でそれをやること。即興音楽をはじめたのだってまだ3年満たない。ジャズに出会ったのは2年半前。わたしは恥も外聞も恐れず、経験談も全部閉じて未知の世界に頭から突っ込んでいったではないか。今周りのひとたちから大事にしていただいているのは、そういったひたむきさを少なからず汲んでいただいているからだと思う。

インスタは投稿にURLを貼れなかったけれど、ここでは音楽のリンクをつけたりできるんでしょうか。解放はいつにしようかな。元のインスタのアカウントは更新のお知らせみたいにしようかな。あれ、なんだか楽しくなってきました。

ぜんぶおそるおそる、どんなふうになるかまだわからないけれど、ひとまず開設。あたらしい船