三隈川のほとりにて

※別のブログサイトからお引っ越し

 2020年8月3日の投稿より

魚釣のひとから伝授の日
同じ都合でいらした夏からちょうど一年が経った。

「この響きのときにこの音遣いに呼ばれているんだよ」と、たくさん開いていただいた本日。高校と大学で音楽理論を学び、材料さえあれば音楽の中で何が起こっているか説明できるはずなのに、実践で組もうとするとバツンと別物になってしまう。今日はそれらをつなげるような物語を大切に聴いた。

正直なところ今までその方にお会いする時、「こんなの自分にはできません」「同じようにうつくしく演奏できません」という気持ちが強かったのですが、今日は封印してみた。代わりに、お手紙にお返事をかく感覚で音を紡いでみると、拙いながらも花が咲いた感じになった。もちろん得たいものたくさんあるし吸収する気だけど、楽器も下地もなにもかも違うし、同じになんてならんよね。
タイプの違うプレイヤーが共存している環境がいいですとおっしゃっていたそのひと。なんて勇気が出る言葉でしょう。わたしは勉強不足だし頭もそんなによくないけれど、次お会いするとき、同じようにうたったり全くちがうようであったり、マーブル模様みたいになれたらいいなと思いました。

さて、夕方帰ってきてからちょっと涼む。枝豆を掘り起こしてゆがく。育ちすぎたからかちょっと苦い。まだ畑にあるけれどそんなに食べないし、どうしようかなと思う。

即興スケッチにとりかかろうとソフトに向かった夜はじめ。ところが、なんだか自分のやっていることが幼稚で気持ち悪くありきたりでひどいしろものに思えてしまう。お昼うつくしい音をたくさん聴いたからだろうか。手もまぶたもびりびりする。自分の音のことも自分の出すものすべて全部いやになっていらいらし、飲み水をひっくり返したり。あんなにわくわくした録音も作曲も急に無意味で馬鹿げたものに感じられて、おなかに小鬼でもおるのか?と我ながら笑ってしまった。継続は力なり、というのはこの不都合な自分との対峙なのだな。

そうだ川に出よう。

夜の中腹、突如として川に出る。
水辺が大好きなわたくしは、街にある湖のような川のほとりでよく楽器の練習をしている。先月は水害がひどかったので、一月以上川から遠ざかっていた。とても久しぶりの川、いつもの場所は水に浸かってしまっていたことから、すこし砂っぽい。
パソコンと楽器を置いて腰を下ろすと、はあっと気持ちが落ち着く。明日が満月なようで、ちょっと赤の差したまるい月が木の枝ごしにのぞいている。すっかり夜だというのに蝉の声がしっかりする、というか、川ってこんなに音がするのかと改めて思う。しずかな山の家とは大違いだ。とおくの水辺におちる電灯が揺れていてうつくしい。家を出るときはもうすでに暗くなっていたし、あやしいかしら行くのをよそうかしらと思っていたが、やっぱりここに降りてきてよかった。

川と一緒に録ったスケッチは2本。
一本目は5つくらい重ねていて、重ねたぶん蝉と川の段差部分の水音がすごく入るから、濁りが多くなってしまった。蝉が予測不能にアクセントで入るのがおもしろい。二本目は2つ重ねて幾分すっきり。

お家でつくるよりも目から耳からの情報が多くて、ひとりぼっちのストレスがなかった。音のなにかしらを作ることについて、正直、習慣化するのが最優先事項で、もうとにかくゴミでもなんでもいいから作れ作れと自分に対しておもっている。録っては消し録っては消し、微妙に残したりもする無数の音群。一応つくってはみたけれど…と、なんとなくでうかべるクラウド上。こんなでもだれかが聴いてくれたりするんでしょうか。第一号はいいねがついていたな。わたしも一号がいちばんすき。きっとこれから先自分のこと大好きになったり大っ嫌いになったりするんだろうな。

川は「誰の役にたたんでもいいよ」とわたしに言ってくれるみたいでとてもいい。
誰の役にたたんでもいい。


https://soundcloud.com/mayokehr/0803-1