あたらしい船

※別のブログサイトからお引っ越し

 2020年7月28日の投稿

あたらしい船がほしい。

絵と文章を1日ひとつずつ単位で投稿するインスタグラムアカウントを開始したのがちょうど8ヶ月前。それが途切れることなく続いてしまった。自分は怠惰な三日坊主だと感じているから、快挙である。自分の作品集をつくりたいと決意したのがアカウント開設から1ヶ月後。作品集には編集が必要で、当たり前だがとにかく材料がなければ編むことはできない。1日ひとつの絵と文章は、誰かに見ていただくことよりアウトプットの練習のための日課だった。

わたくしは音楽もするので、というか専門が音楽なので、演奏だけでなく自分の音楽の作品もつくりたいなといつも思っている。こちらは、作りたい気持ちだけてのひらに置いたまま今年がもう半分以上過ぎてしまった。音楽は、絵や文章と違って他人との協働の要素がつよい。これがいい形でこれは劣った形みたいな理想や固定概念もあるからちょっと距離がある感じなんだろう。誰に頼まれたわけでもない焦りも感じていて、ほんとうに不器用なやつだと我ながら思う。

絵や文章や音楽について、ひとまずまとめておく貯蔵庫のような場所が欲しい。他のひとに混じって流れるお知らせ要素がつよいSNSはなんとなく合わない気がする。あたらしい媒体を探しここにたどり着いたが、何もないところに浮かべるし、肝心の音の作品はないし、しばらく人に言わないとおもう。

そういえば、インスタグラムのアカウントを開設したときも、1ヶ月くらい誰にも言わず、頃合いをみてぼんやり開放したのだった。開設当初、ペン画の殴り書きの絵と自分の根を齧った文章をつくったのがなつかしい。2019年11月末にはじめた記録、読んでて一番味わいがあるのは12月から1月くらいにかけてだなと思う。固有名詞なし、地名なし、自分の名前も出さない文章をたくさん書いた。冬が過ぎ春が終わって夏が来て、自分の名前も地名も書くようになった。拙いけれどどの絵も文章も日々書きためたもの。とても愛しい。音楽の表現にもこんな場があったらなとよく思う。

作ったものを見てもらえないことっていないのと一緒だからねと友はいうけれど、ひとまず一対の目を持つ自分自身を排除してはならない。誰に何を思われてたって結局全部薄れていくのだし、死ぬまでわたしと付き合うのは自分自身だけ。まずは自分がやりたいように作ってみるのがいいんじゃないか。発する作ってみることへの抵抗を減らす、習慣にすること、音楽でそれをやること。即興音楽をはじめたのだってまだ3年満たない。ジャズに出会ったのは2年半前。わたしは恥も外聞も恐れず、経験談も全部閉じて未知の世界に頭から突っ込んでいったではないか。今周りのひとたちから大事にしていただいているのは、そういったひたむきさを少なからず汲んでいただいているからだと思う。

インスタは投稿にURLを貼れなかったけれど、ここでは音楽のリンクをつけたりできるんでしょうか。解放はいつにしようかな。元のインスタのアカウントは更新のお知らせみたいにしようかな。あれ、なんだか楽しくなってきました。

ぜんぶおそるおそる、どんなふうになるかまだわからないけれど、ひとまず開設。あたらしい船